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二森日和。

将棋をみた感想。たまにサッカー。ごくまれに雑談。




第73期名人戦第4局 羽生善治名人-行方尚史八段 片隅にそっと歩を置く。

名人戦は既に終わってしまいましたが、
激戦の記録として「残しておきたい」、と思ったので。

羽生善治名人に行方尚史八段が挑む第73期将棋名人戦は第4局。
これまで後手番をそれぞれが制して羽生2勝、行方1勝で本局。

先手番で羽生名人が突き放すのか。
それとも後手番シリーズの流れを受け、行方八段が追いつくか。

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対局は5/20~5/21、静岡市浮月楼」。
第4局は「将棋の純文学」と称される矢倉定跡形に。

凄まじい将棋でした。

第4局1日目

棋譜中継】(応援掲示板)
 ※ ともに「名人戦棋譜速報」(要会員登録)

名人戦は2日制各9時間。
第1局の振り駒により先手羽生、後手行方。
本譜は▲7六歩△8四歩▲6八銀から相矢倉に。

▲4六銀に△4五歩と反発する「塚田流」の再評価により
矢倉は現在、先手が工夫を強いられている。
羽生名人の作戦選択に注目が集まった。

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▲4六角と出て角をぶつけた。脇システムだ。
角交換を見せて、常に角の打ち込みから激戦になる可能性がある。

その一方、角換わりや角交換振り飛車がそうであるように
角打ちのリスクを警戒しつつ駒組を行うことになるため、
現代先手矢倉の主力とされた4六銀3七桂戦法に比べ
攻めの構想を立てるのが難しいとされる。

端的に言えば先後とも右銀が使いづらい。

そのため、矢倉の有力な変化とされながら、
実戦例は本譜まで108局と少なく、名人戦七番勝負では初めての登場となる。

ただ、羽生名人はこれを苦にしない。先後ともに高い勝率を誇り、
今年1月の竜王戦1組谷川九段戦でも先手で採用、勝っている。

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その「羽生の脇システム」に土をつけた数少ない棋士の一人が行方尚史
一昨年の第54期王位戦第3局で現れ、行方八段が終盤鋭い寄せを見せ逆転勝ち。
同シリーズ唯一の勝利を勝利を飾った。
羽生名人は、あえて自らが負けた戦型で挑む。

ただ、本譜は角をぶつけてから4手後、
後手の行方八段から王位戦の前例を離れた。△5三銀。

【参考局面】
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王位戦では△4三金▲8八玉△2二玉▲2六歩△7三銀▲2五歩△8五歩と先後同型に進み、これがむしろ脇システムの定番局面。

△5三銀は、前例はあったものの最近掘り起こされた指し方。
5二の金を動かさず、角の打ち込みに備えつつ
次に△7三桂~△6二飛をみせて後手ながら先攻しようという構想だ。
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古くは中村修九段が1990年代に指した(局面に合流する)ようだが、
千田五段(当時四段)が昨年4月に指し(王位L▲澤田-△千田、千田勝ち)、
脇システム自体があまり指されないため実戦例は少ないものの
研究会などで水面下で有力視されていたという。

行方八段がこの形を指すのは初めてだが、
羽生名人は先に挙げた谷川九段戦で先手を持って対峙し、勝っている。
行方八段もこの変化を選ぶなら、当然その対局を知っているはずだ。

両者とも脇システムになったからにはここまでは当然織り込み済み。
この変化に自信を持って脇システムを選択した羽生名人と、
あえて羽生名人の勝った局面に誘導した行方八段と。

駒はぶつかっていないが、思考の淵で激しいつばぜり合いが続く。

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両玉が入城し、原図が△5三銀から後手の狙いの駒組。
△5三銀と△7三桂で後手の角が引く余地がない。
加えて飛車先が二重に止まっているが「それで構わない」という主張だ。

例えば▲6四角と角交換した場合、
△同歩で先手は角の使いどころがない。
△5二金6二飛型の効果で、角対抗では頻出の
▲6三角(~▲4一角)のラインなどが消されている。

【参考局面】
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では、ということで角を手持ちに▲2六銀と攻めを発動させようとすると、ここで△6五歩が伸びてくる。重かった飛車先が通り、後手は6筋を軸に角を手持ちとした飛車銀桂の攻め。後手が先攻できそうだ。

かといって角交換せずに▲2六銀と棒銀を発動させようとすると
後手から△4六角と角交換を挑まれ、▲同歩に対し後手には△4七角打がある。
先手はこの△4七角~△6九角成の馬作りを受けるのが難しい。

自陣角(▲6七角打)で馬を獲りに行く手はあるが、
その間に後手は△8五桂~△6五歩~△6四歩があり、
先手が馬に手を焼いている間にどんどん攻撃態勢が整う。

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角交換の流れは先手面白くない。6八に格納し組み立て直す。
ぶつけた角を引くようでは手損にみえるが
角交換しなければ後手は飛車先が重いという事実だけが残る。
後手が飛車を振り直すことを考えれば、つり合いが取れているともいえる。

対して後手は△8五桂と跳ねて、玉頭に攻めを見せつつ角の引き場所を作る。
というより、桂が跳ねないと▲6五歩△同桂▲6六銀で角桂の頭が狙われる。

ここで羽生名人が54分使って1日目封じ手となった。
次の一手は▲8六銀の一手だろうがその先の展開を考えていたのだろう。

既に前例はなくなっているが、羽生名人は先の谷川戦で類型を持っている。
現局面の▲2五歩1七歩が▲2六歩1六歩で羽生-谷川戦だ。
わずかに思える右辺の歩の形の違いだが、
こちらの方がよりよいと考えたのかもしれない。

しかしこのわずかな差が、後に大きなアヤとなって現れることになる。

1日目の消費時間は▲羽生4時間24分、△行方3時間43分。

第4局2日目

2日目、封じ手予想は盤上この一手、▲8六銀。
むしろ控室ではその次の手が注目されていた。

角を引いて6筋からの攻めを目指す△8二角、
玉を固める△4二銀右や△4三金右、
他には△5五歩、△4五歩、△7二飛、△6一飛などなど。

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果たして封じ手は▲8六銀。そして後手の応手は△7二飛だった。

手の広い局面で、しかし本命視はされていなかった手だ。
一番人気は類似局面の羽生-谷川戦と同じく△8二角と角を引く手。
飛車先を軽くしながら次に△6四歩と角あたりを防ぎつつ
先手の角頭を攻めていく、攻めの手だ。

対して△7二飛は「受けの手」。
せっかく飛車を回ったその6筋の攻めを放棄し、手損のようだが
先手の▲7五歩や角交換後の▲7三角打を防いでいる。

△7二飛でこの将棋は類例も離れ新しい展開を迎えることとなった。
そしてここから行方八段が流れをつかむことになる。

この手の意味についてはニコ生解説の渡辺棋王が説明している。

【参考図】(上記図から解説内▲4六銀まで)
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前例の▲羽生-△谷川戦は先手が2六歩・1六歩型で、本譜は2五歩・1七歩型。本譜の形で前例同様△8二角▲7五歩△7二飛▲7四歩△同飛▲7六歩△6四銀と進めると、2筋の歩が伸びている分▲4六銀~▲3五歩の攻めが厳しい。銀交換から▲8三銀と打たれるキズもあるので、本譜は△7二飛と▲7五歩の筋を先受けました。

裏を返せば、羽生名人は谷川戦の前例に則って進むと
▲2五歩型が生きるとみて改良したとみることができるだろう。
その上で、行方八段は▲7五歩を消して手渡した。
逆に▲2五歩を負担にしようということだ。

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そして、先手が手を渡されてみると、ここではっきりとした攻め手がない。

先手は角を自陣にしまったからには、先手右辺で攻めの形を作りたい。
しかし、渡辺棋王が触れていたように▲2五歩型のために▲2五桂がない。
よって、攻め筋は端を絡めた棒銀だが、
手数がかかる上に後手からは見え見えだ。

そういった背景がある中で図の局面。
先手が▲1六歩と右辺の攻撃態勢構築を始動したのに対し
後手はこれに呼応して玉側を整備する△4三金右。
一方、△5二金型の解除で角打ちの隙ができたとみて先手は再び角をぶつける。
角を手持ちにできれば、棒銀に攻め手を足すことが出来る。
勿論、相手も角を手持ちとするので反撃を受ける可能性も高まるが
現局面では攻めの形を増やすことが利するとみている。

無数の可能性から一手を選び出し、意味を込め、
相手に対応を問う、水面下のねじり合い。

ただ、封じ手後の数手は後手の主張が通ってみえる。

先手は攻めにまだ手数がかかりそうだが
先手の角交換の打診にも△4五歩と「切ってこい」と強く催促した。

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▲6四角△同銀と角交換して図の局面。
ここで△同銀とできるのが△5三銀型の効果だ。
△同歩なら▲6三角打~4一角打のラインで馬を作られてしまうが
△同銀ではそれがない。

それ以上に重要なのは、仮に△同銀だとして
△7三銀と出ていた形から△6四同銀だとすると、右桂が跳ねられていない。
△5三銀型だから結果として右図の形が
先手で言う▲4六銀3七桂型(の派生形)になっている。

先手が攻撃の形で工夫を強いられる中、後手は手順に攻撃の態勢が整う。
数手後の局面、控室に訪れた佐々木勇気五段は、はっきりと
「後手の作戦がうまくいっている印象を受けます。」と見解を述べていた。

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それでも先手は棒銀の攻めに託すしかない。
49手目▲3五歩、2日目11時11分。仕掛けた。
そしてここから羽生名人の、長く苦しい戦いが始まった。

控室ではほとんど考慮されていなかった仕掛け。
通常は▲4六歩△同歩▲同銀と出てから▲3五歩と行くのが筋だ。
先手は歩切れ、一歩持って仕掛けたほうが攻めがつながる可能性が高い。

しかし、それでは攻め合った時に後手の方が速い、とみた。

事実、先の筋で▲4六同銀の時に△6九角打が重い。
馬を先手右辺に作られた時に棒銀を阻害する形になりそうなうえに
後手には次に△7五歩からのわかりやすい攻め手がある。
性急に見えても、今仕掛けるべきだ、と決断したのだろう。

▲2六~▲1五と銀を側面に張り出し、
▲2四歩からのサイドワインダーを狙う。
以下△同歩▲同銀△同金▲3四歩まで進めば手になりそう。
手持ちの角を組み合わせれば相当迫力のある攻めが実現する。

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だが、行方八段は冷静だった。
羽生名人の棒銀の圧力が玉頭に迫りながら、
それをすっと受け流すような△8二飛。

直截的には飛車を初形位置に戻すことで反撃に含みを加える。
具体的には終盤の寄せ合いの時に生じそうな▲8五銀△同歩のとき
8筋に飛車があることで次の△8六歩が切り札級になる。

ただそれ以上に大きいのは受けの意味だ。
▲6一角打を先逃げしつつ
▲4一角打~▲6三角成が飛車あたりになるのを避けている。
一路飛車を寄っただけだが、先手が狙う棒銀と角の連携に楔を打ち込んだ。

本局の行方八段は、序中盤で攻撃態勢を整えると
以降は徹底して受けに回り、冴えた指し手を見せている。

一方、羽生名人は棒銀を決断して以降は初志を貫徹させるべく
攻めをつなごうとする。▲2四歩△同歩から、
飛車を先逃げされても▲6一角打。

ただ、後手が右図△4三角打で角交換を強いて
局面を落ち着かせていくと、以降先手がこのまま攻めを続けるのは難しそうだ。

時間は二日目午後3時頃。
浮月楼の外は天気雨が落ちていた。
その頃、行方八段は庭園を歩いていたが、
声をかけられるまで雨に気付かなかったという。

体は盤から離れても、思索はなお盤上をさまよう。

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先手は1五まで上がった銀を3七に撤退させる。
当初から「無理攻めだったのではないか」と言われていたが
結果として攻めは成立せず、歩切れで2歩損の状況。

対して後手陣は、風通しがよくなってはいるが
一手前の△3二玉で自陣周りの離れ駒を解消し、
先手の攻めをはっきりしのいだ形だ。

形勢について、控室は後手よし、
ニコ生解説の渡辺棋王もやはり先手苦しいとみていた。

しかし、それでも羽生名人はあきらめない。最善を尽くす。

攻めは刺さらなかったが、後手陣は薄くなった。
右銀を撤退したことで、苦しくとも反撃の目は残した。
後手が攻めを焦れば駒を拾って逆襲に転じることができる。
その時のために今、できることをする。

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その一つが右図、この角の打ち込み。
先図面から▲4六歩△同歩▲同銀△4五歩打▲3七銀として入手した一歩を
惜しみなく2三に打ち込んで作った土台に角を設置。

馬は作れそうだが狭く、取られそうな位置。
というより、18:00夕食休憩の右図に進んでみると、
後手の馬は包囲され、1筋の歩を交換すれば
△2二銀~△1一歩で詰んでいる。

夕食休憩時の形勢について副立会人の橋本八段は

いやもう△3三銀は、勝ちましたというぐらいの手ですね。受け切って勝つ、というよりも、流れのままに対応していれば自然に良くなるという意識なのではないでしょうか。実際これで先手の攻めが手になるとは思えません。

雨にぬれてもなお没我し、受けに徹した行方八段の手が、
羽生名人の攻めを上回りだした。それがはっきりと形勢に現れていた。

先手の3歩損、馬は閉じ込められ、攻め手も見当たらない。
「先手が投了してもおかしくない」そんな声もあった。

ただ、羽生名人はわずかな持ち駒を生かし、
1一の馬、2六の銀と、少しずつ攻めの仕掛けを作っていた。

閉じ込められた馬と、一度は撤退した右銀。

各々が小さな火種だとしても、万が一
それが数手後、数十手後に有機的に連鎖し機能すれば
敵陣を焼き尽くす炎にもなりうる。

そして、我々は
――何度目だろうか――その「万が一」を見ることになる。

第4局2日目夕食休憩後

2日目18:30。決着をつける夜戦に入る。
ここまでの消費時間は▲羽生7時間30分、△行方8時間16分。
行方八段は1時間を切っている。

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夕食休憩後の羽生名人の着手は▲3七桂。
序盤、▲2五歩に阻まれて上がる機会のなかった右桂がここで動いた。
先述べたように、端から攻めるのでは、
歩の交換の後に△2二銀~△1一歩で馬がとられてしまう。
遅ればせながら桂馬を跳ねて、攻めに厚みを足す。

対して行方八段は「攻めてこい」の△3六歩で応じる。
徹底して受け切る覚悟。▲2五桂を誘っている。
△同歩▲同銀でその時点で先手は駒損の攻めになる。

一撃を入れられなければ即死、入っても勝つとは限らない。
しかし、名人は将棋の理に殉じて攻め込む。

右図、強気に後手が飛車取りにと金を作ると
先手は▲3四銀と右銀を切りこんでつかんだ金を2二に打ち込む。
すれすれの攻防だ。攻め手すら見えないとされていた先手だが、
少なくとも勝負には持ち込んでいる。馬も活用の目処が立ちそうだ。

後手は切らせば勝ち。上部か9筋方面か、どちらに逃げるべきか。

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上へ。そしてこの判断は正しかった。
▲4四歩打に
①△5三玉は▲2三飛成△同銀▲同金で次に▲7一銀が詰めろ(八代五段)
②△4二玉は▲2三飛成△同銀▲同金で次に▲4四馬が詰めろ(渡辺棋王)
と、飛車を切る手から後手玉に詰めろがかかる。
一方、先手玉には詰めろはかからないので先手が勝ちそうだからだ。

しかし△4四同玉の場合、▲2三金△3三歩▲2四飛と
死地にあった飛車に逃げられてしまう。
渡辺棋王は「難しくなってきたのではないか」とみていた。

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ただ、飛車を縦に逃がしてからこの△3五銀打が痛烈。
飛車を取り切り、上部に脱出できれば後手が大きく勝利に近づく。
先手は飛車を逃がすなら▲4三金打~▲3三金と捨てて成り込むくらいだが
「それでははっきり苦しい」(菅井六段)

よって、先手は飛車を見捨てて▲2一馬と桂を取る。
行方八段は飛車を取り切った。飛車は敵陣に打ち込めば
その利きで入玉への誘導路となる。
改めて「後手が優勢になった」、そういう声が支配的になった。

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しかし、飛車を2八に下したのはどうだったのか。

控室では△2九飛を予想していた。2筋に利かすのは同じだが
△2九飛であれば△9五歩から攻めたときに
玉が1段目から逃げられず、厳しい攻めになるからだ。
もちろん、△2八飛でも先手玉を金の向こう側に睨んでいるが

2八だと△4九角と打つのが攻めの筋ですが、▲3九金があるので角を打てません(八代五段)

△2八飛打~△4九角打には▲3九金が飛車角両あたりだ。

先手の形作りさえささやかれていた形勢だが
これをみて、羽生名人は前に進む。形づくりとは程遠い▲2五桂。
飛車から金を守りつつ、次に▲3三桂成で馬とあわせて玉の背後から迫れる。
かといって△2五同銀と取ると2四の金取りが外れる。
自らの銀出で飛車の利きを止めてしまうのだ。

よって、行方八段は△3五玉と進軍するが、
右図の▲1七銀打が飛車に当てながら入玉を妨害、包囲する。
これも△2九飛打ならなかったはずの手だ。

△3八飛成と逃げるが、2筋の利きがなくなり
後手玉もずいぶん狭くなった。
先手は金一枚。しかし、猛烈に迫る。

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そして、おそらく本局のターニングポイントとなった109手目▲2二馬。
▲4四金打以下の詰めろ。
後手が詰めろをほどく手段はまだ多そうだが、
夕食休憩のあの絶望的な局面から少なくともここまできた。

行方八段の残り時間は10分。時間とも闘う。

左図から△3三桂と受けて
▲1三馬(香を取りながら上部を抑える▲3五馬を狙う)
△3六と(▲3五馬を消す)として右図▲3七香打と一閃。

△同飛▲同銀はもちろん、△同とには▲3五馬。この香は取れない。
先手は入玉を阻止した。
それだけでなく推し戻された後手玉は相当危険な形だ。

棒銀を撤退した先手右辺の攻防。しかし最終的には
この局地戦をしのいで、押し戻し、
ついに後手玉を追い詰めるところまで持って行った。

羽生の棒銀は勝ったのだ。
もう先手に勝ちがあっても全然おかしくない。

もっとも、この瞬間は後手に手が渡る。
入玉は阻止されたが、後手は竜を敵陣に残せた。
玉頭への連撃が入れば、挟撃形で先手玉を追い詰めることができる。

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モニタには苦悶の表情を浮かべ盤面に没頭する両対局者が映る。
死力を尽くす正真正銘、最後の攻防。

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行方八段は端に手を伸ばす。
1日目、2日目午前と少しずつ築いてきた玉頭の仕掛け。
ここに側面突破を図る。

棒銀が範囲攻撃だとすれば端攻めは一点突破。
駒の利きを9筋に集めて切り崩す。
先手玉を玉座から追い出せば、逃げた先に竜がいる。

ただし、7九からの脱出ルートは先手の馬が援護する。
この利きを頼りに先手玉が逃げ切れば先手の勝ち。
捕まえれば後手の勝ちだ。

右図、歩と香車の連携で先手の香を釣り上げ、
玉座の背面に金を打ち込む。
▲同玉は△7八竜と竜を飛び込んで▲8八金に△9七歩▲同銀△同桂成
▲同玉△8五桂▲8六玉△7五角以下の詰み。

しかし、先述したように馬の利きのある▲7九玉と逃げたとき
後手が迫る手段がなさそうだ。これは先手が逃げているか。

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だが、ここで△4六桂打があった。
行方八段、残り2分となったところで着手された渾身の一手。
馬の利きを止めて、△8八角打▲同金△同金▲6九玉△5八金打までの詰めろ。

そしてこの詰めろが意外に受けづらい。
後手の駒が迫る地点で精算するのは危険なので△8八角打は妨げにくい。
ならば△5八金打の周りを抑える手が欲しいが
▲5九香や▲6八金引では難解ながらも
角、竜、桂成による玉の包囲を振りほどくのが困難で後手が指せそうだ。

「負けたか――」
羽生名人はこの局面をそうみていたという。

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そんな中放たれた129手目▲6八銀打。
「これがたぶん、ただひとつの受け」(羽生名人)、
そして行方八段が「見えていなかった」手だった。

手の意味としては、「竜の横利きを消した」に尽きる。
5八の地点には利いていない。しかし、
結果的に先詰めろ手順中の△8八同金が成立しない(▲同玉でなにもない)。

ただ、先手は手持ちの金銀を後手玉の寄せに残しておきたい上に
駒を渡すと一気に危険度が増す。

羽生名人の残り時間も15分。
ありえない。土壇場で指せる手なのか。

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だが、この手は通った。

行方八段は最後の持ち時間を投じて△5八角打。
次に△6七角成~△8八金で先手は受けがない。
しかし、後手はこの角打で持ち駒に歩があるのみ。
しかも5~8筋まで歩が利かない。

後手は駒を取りながら寄せていかねばならないが、
それには先手は対応できそうだ。
先手の勝ちがはっきりと形になってきている。

そして。

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盤の片隅にそっと歩を置く。
それで勝負が決していた。

133手目、▲9九歩打。
それはあまりにささやかで、素朴な一着。
しかし、羽生名人が、行方八段が、百手を費やして求めてきたものだった。

△同金なら▲8八玉と逃げられ、放置すれば金を取られる。
先手玉は捕まらない。

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投了図。
その瞬間、行方八段は小さく頭を下げた。
そしてしばらくの間、動けなかった。

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終局時刻は21時20分。
消費時間は羽生8時間57分、行方8時間59分。

感想戦、その後。

羽生名人が逆転で勝ち、七番勝負の対戦成績を3勝1敗とし
名人戦防衛まであと1勝としています(記事掲載時には名人戦は終了)。

インタビュー及び感想戦では
主に終盤の局面に触れられていたようですが、
全体として羽生名人は脇システムに誘導しながら
▲2五歩で桂が使えなくなったことについて
「つまらない将棋になってしまった」と作戦負けを認めています。
ずっと苦しい戦いだったと。

裏を返せば、それまでの行方八段の指し回しが素晴らしかった。
最新形を指しこなす柔軟さと切れ味鋭い終盤。
中盤でリードし、最後の最後まで羽生名人を苦しめました。
持ち時間9時間をフルに使って追い詰めたからこそ
この凄まじい勝負が誕生した。

ただ、一方で行方八段も控室で「後手勝勢」とみられていた
夕食休憩の局面について「まだ難しいと思っていた」と語っており
実際には形勢はそこまでついていなかった可能性もあります。
これについては渡辺棋王が後日、ブログで触れています。

blog.goo.ne.jp

少なくとも棋士の第一感よりもかなり難しい形勢だったのでしょう。

感想戦で数点局面が掘り下げられましたが、
終盤以降はどれも明快に勝ちだったり形勢を損ねたとの声は聴かれず
どこまでも難解な局面が続く勝負だったようです。

局面図を一つだけ。

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勝負を決定づけた羽生名人の▲6八銀打ですが、
羽生名人自身はここはまだ負けだったとみており、
△4九竜で後手指せていたのではないか、という点で
インタビュー時点で行方八段と一致しています。
ただ、感想戦で掘り下げてみたところ、
やはりどこまでも難解だった、と。

羽生名人が勝ちになった、と思ったのは
本当に最終盤、隅に歩を埋めた▲9九歩。
直前の「▲6八銀打で負けていたと思った」との証言があるので
これは本当の気持ちなんだろうと思います。

この勝利を「羽生マジック」と呼ぶ声もありますが
だから私はその側に立ちません。


「奇術」というにはささやかすぎる、▲9九歩という手を指すための
それまでの数十手に及ぶ過程が、辛抱が、すべてが、
「名人」羽生善治なのだと。そう思いました。
その棋譜に、その棋譜の人生を生きる。だからこそ凄まじい。

そして、それに立ち向かった行方尚史八段にも。
戦うその姿を、私は忘れないだろう。


第73期名人戦は既に終わっています。
けれどもそこには未だ、伝えられたがっているものがある。
少なくとも私は、そこからいろんなものを受け取りました。
それを少しでも切り取って、お返しすることが出来れば、幸いです。