二森日和。

将棋をみた感想。たまにサッカー。ごくまれに雑談。




「実名報道」という名の既得権。

昨日付の、だから3/4付の朝日新聞本紙に
「報道と人権委員会」の定例会の内容が載っていました。
テーマは、「アルジェリア人質事件の犠牲者氏名の公表問題」。

有料化してからは珍しく、全文がネットで見れるので
読まれた方も多いかもしれません。

犠牲者の氏名伝える意義は 朝日新聞「報道と人権委員会」

でもまあ、私の理解力のせいか、
正直日本語がよくわからない。

この問題の大きな前提は、ジャーナリズムの役割は何かという点だ。ニュース報道は公共の関心に応えるためのものだ。情報を広く社会に伝えることは、民主主義を支える条件の一つだ。ニュースの報道は正確な事実に基づかなければならないし、その事実の中には当然、「誰が」という情報が含まれる。

 もう一つのジャーナリズムの役割は、歴史に記録を残す仕事だ。可能な限り、具体的な事実を記録する必要がある。そういう立場に立てば、ニュース報道は実名が原則だ。人権やプライバシーに配慮する必要から匿名にする場合もあるが、それはあくまで例外だ。そう考えると、犠牲者の氏名をなぜ公表する必要があるのか、おのずと答えが出る。

すみません、答えが全くがわからない。
いろいろ書かれていますが、要約するとこうなります。

Q.なぜ人権を侵害してまで被害者の実名を報道するのですか?
A.ジャーナリズムの役割は何かという点を考えればおのずと答えが出る(`・ω・´)キリッ

それでわかってもらおうと思っているのであれば
それは「伝える」という技術の問題か、
それ以前に伝えようという意思がないと思わざるをえません。

この質問は、実際には「実名報道」を含め
「ジャーナリズムの役割に疑義が生じているのではないか」と問うている。
その答えが「ジャーナリズムの役割だから」というのでは
答えになっていないのです。

また、その論拠でいくなら、後段で触れられている
「生存者の取材が匿名になる可能性」自体が意味不明になる。
原則実名が役割なら、なぜそこには配慮が入るのか。

強いて「ジャーナリズムの役割から導き出される
犠牲者の実名報道は自明である」という見解を受け入れたとして、
それはつまり、「メディアは特権階級なのでおk」という
高らかな宣言に他ならないですが、
自らを権力と自認するのであれば、憲法の授業で習うところの
相互の人権調整にかかる「公共の福祉」による制限を受けるべきで
それは個別の事情によって検討すべき課題だから
高度な人権侵害が疑われる「匿名希望者への実名報道」は
「自明」ではなくむしろ「例外」になるべき、という反論もしうる。

いずれにしても、意味が分からない。

というか、あえてこれを1面も使って掲載している以上
積極的に「自明」であることを宣言しているのだろうか。

もし、本気でこの文章に意味を見出すとするなら、
メディアを「特権階級」と置き換え、
ジャーナリズムの役割たる実名報道を「既得権」と置き換えることを
自ら承認したということになる。

それはメディアにとって手の込んだ自殺行為にしか映らない。
しかし、そうあろうとしているのかもしれない。

私は、「きれいごとで語られる実名報道はいらない」でも書いたように、
実名報道」の意義自体は否定しません。

しかし、「死のセレクション」を行い、
遺族や死者の人権を侵害しうるにもかかわらず
その論拠を「きれいごと」に求めるのでは
もはやだれも納得しない、という気分であの記事を書きました。

実名報道をするに足ることを納得させるような
汗と血のしみ込んだ迫真の理由や記事を読みたかった。

今も、その気持ちに変わりはありませんが、
ただ、絶望感は深まりつつあります。

「役割だから」でかわすなら、それは既得権の惰性に過ぎない。
そんな「自明論」で「死者の叫び」を消費してほしくないとすら思います。

最後に、その「死者の叫び」について。

さらに、二つの視点があると思う。一つは死者の尊厳という視点だ。単に数としてしか扱わないことは、死んでいった人たちの尊厳を否定するに等しいことではないか。社会は、非業の死を遂げた人々を匿名のまま葬ってはならない。私たちはその名を記憶し、その無念の思いや怒りを共有していかなくてはならない。たしかに少なからぬ人たちが、遺族の方々の悲嘆に心を寄せ、そっとしておいてあげるべきだと考えている。プライバシーを守るためには氏名の非公表も許されると考えている。だが、死者の叫びはどうなるのか。死者は沈黙しなければならないのか。死んだ人たちは語ることができない以上、私たちは代わって語らなければならない。報道機関の役割の一つだと思う。

故ダイアナ元英国皇太子妃は、パパラッチに追われた結果の
事故死の間際、「ほっといてよ(Leave me alone)」と呟いたとされています。

真偽のほどは別としても、仮に私も非業の死を遂げたとしたら
「死者の叫びを代わって語らなければならない」
などとする勝手な使命感に、
「ほっとけ」と言ってやりたい。

そんな論理で死を消費されるとしたら、
それはただの冒涜に過ぎない。