二森日和。

将棋をみた感想。たまにサッカー。ごくまれに雑談。




Not in my backyard.

最近の記事では
このふたつを読んでひどく混乱してしまった。

さとり世代、浸透中(朝日新聞デジタル)

特集ワイド:留飲を下げたい人たち(毎日jp)

・・・えーと。
結局、社会に対して怒ってほしいのか、
怒ってほしくないのか。
震災以後の、数多の街頭デモ報道とかでも思ったことなんですが
「大衆の意思表示」ということを重視しすぎた結果
まがりなりにも相対的多数の反映を示す選挙結果を軽視して
究極のマイノリティアピールであるデモにこそ民意がある、
みたいな持っていきかたをしてしまった矛盾は
ここ数年で結構深刻になってしまった気がするのです。

「ヘイトスピーチ規制」が相次いで語られるようになったのも
「デモって素晴らしい」という前提のあまり
メディアで「いいデモ」と「悪いデモ」を
峻別しなければならなくなってしまったからじゃないかな。

それはたぶん、あまりいいことじゃない。

ありていに言って、現状では

「若者よ、批判精神を持て」
「でも我々は批判するな」

というベクトルがどんどん強くなっている。

それって原発や沖縄問題で直面する
NIMBYと何が違うんだろう?

そういう現場では
メディアの尺度で測られた「民意」にのっとった運動が
民主主義の精神を体現し、でも迫害され、
不当な地位に押しやられるというストーリーが作られる。

けれど、実際には、それぞれの立場があるだけで
必ずしもそこに善悪はない。
でも、一方的に(知らない間に)二項対立の構図が作られ
でもってどちらかに「民意」が与えられ
もう一方は権力による懐柔でつくられた「偽の民意」ってことにされてしまう。
結果的に、部外者の「共感の連帯」ってやつが、排除と差別と孤独とを強くする。

地域の分断を生むのは、権力の作業というより
「ストーリー」を求める何者かの
勝手な色分けのほうが大きいと思う。
そしてその責任は、誰もとろうとしない。

私が八ツ場ダムの現地で見たのは、そういう風景です。

この国のメディアの
「かわいそうな人」を作りあげる能力は屈指だと思う。

その悲劇に酔いたい読者がいる、といわれればそれまでだけど
でも、そういう型にはまった「みんなが権力の被害者」的作文は
どんどん実態から離れていくように感じます。
被害を強く訴えるということは、必然的に加害者を生むことだから。

実社会で加害の故意を持つ人なんてそうはいない。
けれど、そういうレッテルを張られてしまう。
それに対して反対運動が起きたりするけれど
本当にそれって向かうべき方向性なのかな?

切り取る視点にセレクションがあるのは仕方がない。
仕方がないとして、それを事実として伝えられるか。
被害と加害の連鎖をあえて生み出してしまってはいないか。

私も他愛のない雑談書きですが
そういうことは、最近、よく考えるようにしています。