二森日和。

将棋をみた感想。たまにサッカー。ごくまれに雑談。




エダノミクスの消息。

朝日新聞本紙では、
アベノミクスって、なに?」という連載企画をやっています。
総じて批判風味。同紙の最近の主張は「脱成長」らしいので
それはそうかもしれません。

しかし、政権の賃上げ要請についてまで
「効果は大企業や富裕層に限定」「格差を助長」
という色合いでまとめられると
結局どうしてほしいのよ、とか思ったりもします。
春闘 横並び排し、いざ奮い立て
というタイトルのコラムもあるっていうのに。

基本的に経済成長ばかりを追い求め
足元に咲く花を愛でる心を忘れてはいないかい?
というタイプのお話というか、
より成熟した文化への方向転換という話が
下敷きとしてあるようです。
うん、わからなくもない。

しかし、そういう話は
少なくとも「エダノミクス」の総括をしてからにしてほしい、
とも思うのです。

エダノミクスというのは、朝日新聞が昨年1月に開始した連載記事
エダノミクスvs.マエハラノミクス」で語られた造語で、
枝野幸夫経産大臣(当時)の志す「豊かな低成長」路線のこと。

本文で要約されているところによると

坂の上の雲にたどり着き、もっと先に雲はないかとこの20年探してきたが、もうなかった。」
(中略)
人件費を削って外国と競い合うより、豊かさを実感できる社会をめざす。大企業中心の輸出型から、医療や農業など内需型へ産業を移す。なにより大切なのは【働く場】だ。より成熟した社会に向けて賢明に坂を下ろう―

というものでした。

一方のマエハラノミクスは市場経済重視・上潮派のコピペで、
対立軸を示しているようにみえて、思考をエダノミクスに誘導する記事でしたが
これ以降、このエダノミクスが朝日新聞の経済論の
背骨になっていったように思います。

よって、アベノミクスを批判するときにも
基本的にはエダノミクス(的なもの)に立脚する。
キーワードは内需拡大、脱成長、人口減少社会、負の分配、といったところ。

確かに「イイハナシダナー」と感じます。

ただ、現実問題として
「コンクリートから人へ」というスローガンや
「子ども手当」「戸別補償」「高校授業料無償化」等の
看板政策を掲げていた民主党政権の経済政策は
どうだったのだろうか、という総括なしに
アベノミクスへの単純な批判はできないと思うのです。

民主党内にはバリバリのリフレ派もいたわけで
軸はブレブレでしたが、少なくともマニフェストを眺める限り
永遠に公共事業支出を求められる土建国家から離脱し、
企業よりも個人への直接支援によって内需拡大を図る、
という政策設計に立脚していました。
「エダノミクス」と言っていいと思います。

ですが、民主政権下では、結果論ですが
内需拡大の名の下に円高誘導をしていたことになるわけで、
しかも内需拡大によるマインドの向上は起こせなかった。
むしろ、負の効果の方が大きかったように感じる。

つまり、エダノミクスは少なくとも
「イイハナシ」で終わってしまった。
実現する過程の問題か、あるいは目標自体に問題があるのか、
それはわかりません。なぜなら総括がされていないからです。

だから今、アベノミクスをこの失敗した尺度で測ったところで
何の意味もない。具体的にどうすべきか、
それが見直されていない以上
「だって結果を残せなかったじゃん」
で終わってしまう。

この数年間、
沖縄の米軍基地問題も、八ツ場ダムにしても
「イイナハシ」はされたけれど
その顛末には誰も責任をとってはこなかった。

エダノミクスもそう。
アベノミクスに対置した概念としてとらえず
それを総括せずに別の名前で批判するのであれば
結局それは批判のためだけの批判に終わる。

そんなのはもううんざりだ。

欲しいのは具体論。けれど、その具体論には
少なからず失敗があった。
それはなんだったのか、そしてそれをどう生かすのか。
その答えがない限り、説得力は生まれない。

反アベノミクス論者は
現在の動きは「危険だ」という。
にもかかわらず、そこに説得力がないのであれば
その依拠する論が正しいという思想自体を
見直していく必要があるんじゃないか。

「脱成長」に現実味がないのだとすれば
そこに人を突き動かすエネルギーがないということ。
突き動かすだけの説得力がないということ。
少なくとも、市場が反応した今の状況に比べれば。

その差はあまりにも大きい。
今、社会を動かしているのは「俗」です。
資本主義の宿命だとしても、それがいいとは言い切れない。

「イイハナシ」がそれをも飲み込むためには
逃げてる場合じゃないんじゃないですか。

現時点、現状を見つめ直す必要があるのは
健全な批判者を自称して、
けれど内部の闇に目をつむろうとしているほうだと思うのです。