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二森日和。

将棋をみた感想。たまにサッカー。ごくまれに雑談。




「許される暴力」の階層。

これでやめにしますが、例の「体罰」の話。

なんか、すごく建前が先行した話になっている、と思います。

「体罰は絶対に許されない」という
「原則の磁場」ができたうえで、
例えば体罰を許容するかのようなコメントがつるし上げられる。

そこにはつるし上げられてしかるべき言説もあるけれど、一方で
「体罰なんて絶対に許されないに決まっているだろう」
そういう言説を前提に、一方的に各関係者のコメントが
評価されたりする。

でも、そういう人たちに限って、
体罰をふるった教師やいじめを行った生徒を
即刻刑事処分に科すべきだ、というと
“教育に公権力が入るのは自粛すべきだ”とおっしゃったりする。

「絶対に許されない」のに、なぜ?
「絶対に」許されないのなら、教育という枷は不要で
ただ単純にすべてに暴行罪を適用すればいい。

でも、そうはならない。

だとすれば、もうその議論のなかには
「許される暴力」が含まれているということになる。


「普遍的な解決策」なんて無意味だし疲れる。
それよりも、実態に即して解きほぐすことが必要だと思います。

どのケースもそうだけれど、
対応にはそれぞれ線引きが必要だし、時に冷徹な判断を要する。
「絶対に許されない」なんて建前は邪魔なだけ。

モーツァルトの話は、まあともかく。

井上ひさしは、妻に暴力を振るわなければ
書けない人だったといいます。

私は、その事実に反吐が出る思いですが
その作品に神を見る人はいたりするように
そこには厳然と人によって「許容される」という
えこひいきが存在する。

個別の事案に真摯に向き合うしかないと思うのです。
「許されない」なんていうのは思考停止。
好むと好まざるとにかかわらず、私たちの世界には
「許される暴力」の階層がある。

それと向き合ったうえで、どう対応すればいいのか。
その上で、生徒間のいじめも含めて
全件刑事処分っていうのなら、仕方がないけど。

個人的には、警察よりもメディアよりも切実に
学校には調停が必要だ、と思います。

教育の現場にこそ、法曹は入る必要があるんじゃないのかな。