二森日和。

将棋をみた感想。たまにサッカー。ごくまれに雑談。




将棋について書くこと。

幾ばくかの雑感。

指すわけでもない、最近なって観はじめた、
つまり観てたわけでもないのに私は
「書く将」みたいなことをやっているのですが、
本当にそうですよねえ、と思ったりします。だって

3月のライオン 9 (ジェッツコミックス)

3月のライオン、9巻を読みましたが、
符号の羅列なんてなくても、ここまで将棋が面白いのです。
もちろん、将棋だけじゃないですけれど。

でも、それは凄まじく大変なことでもあるな、と思う。
一つには、やっぱりわからない人に「これってすげえ」と思わせるには
それに匹敵するだけの比喩を持たなければならず
そしてそれを表現するだけの力量がなければならず。

もう一つには、困ったことに
少しでも指し手や変化手順が符号で追えるようになったりすると。

それ自体が、信じられないほどクソ面白いからです。


楽譜を諳んじて、心で奏でる音楽の指揮者気取りが許されるならば
棋譜がちょっとでも読めたりすると、
例えば変化手順の一端に触れるだけでも
そこに棋士たちの恐ろしいまでの才能を、思考の流れを
なぜか感じられる気がする。それがとてつもなく面白い。

そういう魅力が、逃れ難くあって、
符号を羅列してしまいたくなるのはわかるのです。
わかればわかるほど、一手一手を落とせなくなる。

その手はもちろん神域の一着なんだけれど、でもそれを語るには
そこまでに至る、例えば棋士たちが切り開いてきた定跡があるわけで。

でも、あれもこれもと図面引いてても、
長くなりすぎて結果、記事を損なっていることはままあるよね、
とか、思いますし。

そうして話が戻るのですけれど、
そういう面白さを、文章にするのはとても難しい。

私は一時期、サッカーのことばかり書いていて、
それがこうじて?何度か「記事を書いてみないか」などと
誘われたこともあり、実際何度かむにゃむにゃ。

いろいろあってその世界からは距離を置いていますが
その時の感覚でいうと、サッカーの場合、
というかサッカーに限らずスポーツ全般がそうかもですが、
視覚からの情報と、共有される感情のシンクロがめちゃくちゃ大きくて
プレーにしても、戦術にしても、結果にしても、
視覚で得たものを、ほぼダイレクトに伝えることができれば
ほとんどそれは「伝わる」文章になるように思えた。

直感で得られた共感が、文章を通じてそのまま形になるような。

将棋は違う。

目に見えることだけでは
とてもじゃないけれど、その戦いは、苦闘は表せない。
そして「伝える」ことを思えば思うほど、符号に頼りたくなってしまう。

でも、その結果として、直感的な衝撃からは遠ざかっていく。

ここは、私の個人のブログですから
正直言ってどういうかたちで書いても自由なのですが。

でも、できれば、
わかるひとにも、わかんないひとにも、過不足なく「伝えたい」。

不遜かもですが、そうしなければ
公開して書く意味もないですし。

それは、どうすればできるのだろう?
一つのスタイルが、現在の
「厨二サブタイ」方式なのですが、それもどうなのかな。
少しは、何かにちかづいているのでしょうか?

そんな試行錯誤の日々です。